連れ出せ。使い倒せ。

2010年の冬、初めてのデジタル一眼レフを買った。あまりモノを欲しがる性分ではないつもりだが、欲しくなった理由、その時の自分の中のロジックははっきり覚えていない。実家住まいで古いカメラを見つけたからか、就職を控え何か趣味が欲しいと思ったのか、そんなところだった気はする。もともとコンデジ片手に東京散歩するのは好きだった。とにかく買った、Nikon D3100ダブルズームキット。後々長く遊ぶことを考えると、レンズのラインナップからしてCかNかといったところで、店頭で触って比べたところ、シャッターの感触がNの方が好きだったのだ。
安めのレンズを買い足しながら遊んだ。鳥とか鉄道とかモデルとか、特定のブツを撮ることには関心が無かったので、街や公園や勤め先の博物館の展示をうろうろと撮っていた。翌年からは、大学の友人何人かで「写真の会」を開催し、ぶらぶらぞろぞろと街を撮り歩いて、最後にお茶でもしながらお互いに写真を見せ合ったり、ウェブアルバムで共有したりした。一緒に行動していても、人によって撮りたいと感じるものや撮り方が異なるのが面白かった。
ほどなくしてD7000を買った。実は当初から、エントリー機に満足せずステップアップする可能性は十分自覚していたが、何せ一つの趣味にこつこつ取り組む経験があまりなかったので、いったん様子を見たのである。フルサイズほどのお金をかける気はなかったのと、軽さも性能のうちと考えてのAPS-C上位機種。それでも操作・設定の幅が広がったことで、「どのように撮るか」に対する向き合い方が豊かになり、撮ることの楽しみが増えた。
これは5年くらい使った。結婚してからの子なし時代だったので、旅行のお供も多い。特にハイライトと言えば、新婚旅行で行ったケニアのサバンナにて、300mmのキットレンズとともに頑張ってくれたことと、大学時代の友人の結婚披露パーティーでカメラマンをやったことか。友人は、プロを雇うほどでもないという考えから大した期待もなく僕に依頼してきたようだが、経験上写真の出来栄えはすごくすごく大事なので、自分の式の写真を思い出しながら、良い雰囲気を写真に残せるよう努力した。何枚かは、美しい思い出のよすがになってくれているだろうか。
転職・転居・子の誕生を経て、カメラ・写真に対する考え方は大きく変わった。子を撮るという観点から、広角レンズや合焦が速いレンズにも関心が向き、対応のためにD7000からD7500に更新したが、それまで以上に活躍しているとは言い難い。
子ども連れでの旅行では、子ども自身に加えて何かと荷物も増えるという状況の中で、その全てをかみさんに任せて自分のための撮影に割ける時間は多くない。被写体を探すための感受性の維持を含めて、ある程度の集中力を投入しないと楽しめないのである。一方で、いくら家族とはいえ、単なる旅先の記念写真を撮ることには興味が無い。「スマホで十分」というやつだ。諸々の荷物に加えてカメラを持っていくかという点も、毎度逡巡する。
では一人で休日に街へ出るかという気にも、もはやならなかった。僕は大阪という街を撮りたいと思わない。東京は、歴史的な成り立ちや地理空間としての構造についてある程度の肌感覚があった上で、それをある瞬間ある場所で自分が撮る、いわば切片を作るような営みに魅力を感じていた。大阪にはそれが無い。理由はあまり考えたくない。個人史上の経緯の問題かもしれないし、単に歳をとったからかもしれない。一緒に撮影会をしてくれるような友人も、無論いない。
最近は自転車や山登りに緩く関心があり、これまた独りでやっている。その最中でも撮りたいと思うことはあるのだが、基本的には漕いだり登ったりする行為そのものを楽しんでいるので、カメラの重さと「撮りたさ」との釣り合いは、とれないことが多い。
そう、結局、「重いから使わなくなった」という死ぬほど凡庸な結論だ。やはり、歳を取ったのかもしれない。
取り立てて写真の良し悪しが判る方とも思わないが、僕は自分の写真がわりと好きだ。僕は絵も楽器もうまくなくて、自分の思うように表現できないので好きではないが、自分の写真は好きになれた。いわゆるきれいな写真とか、すごい写真を撮ることに興味はない。最大公約数的に美しい被写体、皆が群がって撮っているものを撮ることは、僕のしたい「撮る」とは少し違うのだ。僕は、言葉にしてしまえばありきたりだがやはり、自分しか撮れない、というより撮らないような写真を撮りたいと思う。そしてある程度そのための感覚や技術はある、と思っている。どの角度と距離感で、何と一緒に、どこにどの範囲でピントを合わせて、どのくらいの明るさで。人生全般、あまり個性を出したいタイプではないが、文章と写真については、多少、こだわりたいところがある。
写真を撮ることを表現と位置付ける上でのスタンスとして、「自分が見ているものを撮る」ことが必要と思っていた。即ちOVFである。記録がデジタルである以上、要はどこで線を引くかという問題でしかないのだが、ファインダー越しにフィジカルに接続している世界に対峙する、という意味合いは、自分の中に確かにあった。
その思いは今でも否定しないが、それでも、使わなければ意味が無い。そこまで自分を納得させてようやく、Nikon Fマウントの一切を売ることにした。
・D7500
・35mm
・40mm Micro
・50mm
・10-20mm
・18-105mm
・70-300mm
楽しかった。もう、満足した。気が済んだ。
メルカリやヤフオクなんかだと、うまくすると結構良い値段で売れるのだろうか。でも、マップカメラあたりでどかっと売りたい。手間をかけたくないというのもあるし、それなりに念も入っているので、そのまま個人に引き継ぐよりも、いったん商業的な「禊」を受けてほしい。そうか、貨幣経済って、そういうことなんだなあ。
次の最有力候補はオリンパスEVF付ミラーレスで、軽くて、コマンドダイヤルが2個あって、親指AFができて、レンズのラインナップがそこそこあって、比較的廉価。

僕はまた写真を撮れるだろうか。

君の夢を見たので、君のことを書いておきます。

誤解のないように伝えるのが難しい類の話ですが、君ならあまり誤解なく理解してくれるのではないかな。
僕らはどこか似ている部分があると思います。教養や創造性においては君の方が数段上だと感じていますが、性質、考え方の傾向、面白がるポイントが似ている。だから、君と一緒にいる時間は楽しくもありましたが、何よりも自然でした。くだらない話を吹っ掛けることに抵抗が無い、むしろいつまでもくだらない話をしていたい、かといって話したいことが無ければ隣で黙っていてもあまり気を遣わない、そんな相手です。迷惑でしょうが、僕なりの親愛の表現です。

君と出会って以来、双方ともに所謂「フリー」である時期はほとんどなかったので、そっち方面でどうということはありませんでした。僕としては君に対して多少とも異性としての魅力を感じてはいましたが、いずれにせよ僕たちはそういう風になるべきではなかった、とは考えています。僕たちの似ている部分は人間としてあまり良くない、暗い性質にも及んでいるので、それが重なり合ってしまう時、僕たちはお互いを幸福にするようには作用できないのではないかと。

僕の配偶者は、あまり僕とは似ていないと思います。趣味(hobby/taste)の傾向は近いものがありますが、考え方や性質が似ているとは思えません。なので多分、彼女は僕の本尊の部分をあまり深く理解していません。僕がどのような論理で何を考えどう感じて何を欲しているか、ということについては、君の方が鋭く洞察してくれるでしょう。

でも、結果的には、こんなものかなと思います。

僕は正直に言って結婚そのものには興味なかったし向いてもいないですが、それでも「まあいいか」と思えた決め手があるとすれば、それは共通点よりも相違点、配偶者の内にある「自分にないもの」でした。彼女はある面において、僕が獲得し得なかった、非常に健やかなものを持っている。そこに結婚の先にある人生の調和を期待しました。

なので合わない部分も多々あるのは当然で、日常的には不満もあります。お互い様です。それに、どうせ僕は、どう生きても生きづらいのですから。

君はどうですか。彼も聡明で繊細で、君と共通点は多いと思います。ですが、ほんの少し、君の中心を微妙に外してくる部分に、苛つきながらもある種のバランスを得ることはありませんか。

彼よりも僕の方が君を理解している、などということは無いでしょう。ただ、救いは案外そういうところにある、ということを言いたいのです。

ある時期、君は本当に、存在が揺らぐほどに弱っているように僕には見えました。当時僕も自分のすべきことから逃げて時間をだぶつかせていて、何度か君を誘い出したりした記憶があります。あの頃、君は僕を利用したかもしれません。それはいいんです。多分僕も同じか、ことによったらより悪質かもしれない。

僕は僕なりに大切な友人をどうにか支えたかった、そこに嘘は無い一方で、僕も僕自身を正当化しながらどうにか日々を切り抜ける必要があって、その手の差し伸べ方は未熟で不器用なものだったと今では思います。短期的にも長期的にも君のためになったのか、そのことについては申し訳ない思いです。

ともあれ、君も(僕より先に)結婚して、配偶者と支え合って、子を守る強さを得たでしょう。少なくとも僕には、そのことを君に期待する義務があると思います。いつまでも「あの頃の弱い君」を君から引き出そうとして、傷のなめ合いを持ち掛けるのはフェアじゃない。

君に連絡を取りたくなることはたまにあるのですが、そんな思いもあり、なかなか踏み出せないことも多いです。

グレムリンについて

 回転寿司に当たって会社を休んだ時に暇だったので、久しぶりに『グレムリン』を観てみた。クリスマス映画の定番だしね。
 本当に幼い頃以来だったのだが、改めて観ると「へえーこんな映画だったのか」と思った点がいくつか。
 グレムリンが日本人をモデルとしている、とまでは見れなかったものの、少なくともシンボリックな扱いとして、やっぱりアメリカの経済的なナショナリズムはひしひしと感じるのである。
 わかりやすいところで言えば、近所のおっさんが自動車や家電などについて頻りに国産製品びいきをして、外車をけなす。その描写はコミカルではあっても風刺には至っていないことから、この映画の基本的なスタンスはこのおっさんと同じと考えてよいだろう。
 84年公開の映画ということで、日本人としては日米貿易摩擦を思い出すが、登場人物の誰も「日本」製品がダメとは言わないので、日本がdisられていると感じるのを自意識過剰とするのもわからんでもない。それでも、未知の生物モグアイが、宇宙でもなく、(地球上の)自然でもなく、チャイナタウンというアメリカ人にとって最も身近な東洋=異なる文明からもたらされたものであることの意味を軽視するわけにはいかないだろう。
 日本人にとってはお馴染みかも知れないが、85年公開の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、1955年のドクが「日本製の部品なんて信頼できん」と言うのに対し1985年から来たマーティーが「日本製は最高」と返すシーンがあり、この当時「日本製品」というトピックについてはもはやジェネレーションギャップとしてジョークが成立するほど隆盛を誇っていたことが示されている。
 実は映画『グレムリン』の成り立ちの上では、今述べた近所のおっさんこそが「フィルター」として極めて重要な役割を担っているのである。そもそも、この映画のタイトルが何故「グレムリン」なのか。本来グレムリンとは、機械に潜んで悪さをする子鬼を指すそうだが、映画の中で展開される未知の生物との格闘は、別段そのようなグレムリン像を想起させるものではない。国産びいきのおっさんが「外国製品にはグレムリンが住み着いている」というアイディアを導入することで初めて、あのモンスター達はグレムリンと化すのである。
 また、ギズモの飼い主・ビリーが警察署に駆け込んでギズモを見せた際、ギズモが星条旗をかぶったりして「アメリカびいき」を印象付けてくる場面も、ちょっとしたカットにしてはできすぎていよう。
 映画は、ギズモをビリーにプレゼントする父親によって語られるという体裁をとる。といっても、最初と最後にナレーションが入るだけだ。わざわざこのような演出がなされた理由がしばらくわからなかったが、これもまた「フィルター」を強化する仕組みではないだろうか。
 映画の最後は、「家電の調子がおかしくなったらグレムリンの仕業かも知れないよ」という父親の語りで締めくくられる。モンスター達とのドタバタは、語りのレヴェルでは国産びいきのおっさんの眼差しに回収されるのである。父親が最後に言いたかったのは、災いを招いたことへの反省の弁ではなく、「外国製品を疑え」というメッセージだったのだ。
 この点において、格闘に直接関わらなかった父が語り手を担うことのトリックが効いてくるのであろうし、「しょぼい発明家」という父の職業も、押し寄せてくる大量生産の外国製品に対峙するものとして機能していると考えることもできる。
 ところで、この父親が本当にしょぼい。発明品は売れないので、銀行勤めの息子が家計を支えている。グレムリンの大量発生時は見本市に行っていたとかで駆除には一切関わらず、ビリー達が(というより直接的にはギズモが)ラスボスを倒したところに偶然居合わせて「なんじゃこりゃあ・・・」みたいな顔をするだけである。とにかく、役に立つところが無い。ただし家族には愛されている。
さらに言えば、ヒロイン・ケイトの父親も、「クリスマスに家族を驚かそうとして煙突から帰宅しようとしたところ、足を滑らせて死んだ(からケイトはクリスマスが嫌い)」とのことで、切ない話に見せかけているが、相当しょぼい。
 一方、母は超強い。繭から孵ったばかりの凶悪なグレムリンにキッチンで遭遇したビリーの母親は、ディスポーザー、電子レンジ、ナイフといったその場の武器で立て続けに3匹も殺してしまうのである。トンマな奴らばかり出てくるこの映画において、数少ないスカッとする見せ場のひとつであることは間違いない。キッチンという場における最強の存在としての母、という表象も面白いが、このような父なるものと母なるものとの描き分け、ないしはそれらをひっくるめた家族像にも何か深みがありそうではある。
 そして話を戻せば、キッチンという生活家電の密集地域においてグレムリンを退治することの意味は小さくないだろう。
 全ての騒動が収まった後、モグアイの元の所有者であった中国系の老人がモグアイを引き取りに来た時、「この災禍はお前ら自身の利己心が引き起こしたものだ」と非難する。一見ごく一般的なお叱りなのだが、これも自意識過剰的に見れば、戦後アメリカが日本を飼い慣らし、ある面では投資回収のために育成してきた、という経緯を思い起こさざるを得ない。ここでアメリカ人観衆に対してチクリとやっておくのがこの映画のスパイシーなところか(それを面と向かって言われたビリーの父親は、先述のとおりお話をまとめてしまうのであるが)
 子どものころは単に可愛い生き物と気持ち悪いモンスターが出てくる映画として楽しんでいたと思うが、今観るとスピルバーグの小意地の悪さ(褒め言葉)が効いていて、それはそれで楽しかった。


 スピルバーグと言えば、先日テレビで、1979年公開の『1941』という映画をやっていた。真珠湾攻撃直後のアメリカ西海岸におけるパニックをネタにしたコメディである。番組冒頭に評論家が宣った「ホームラン性のファウル」とはなかなか言い得て妙で、人にお勧めするのは難しいし、全体として良い・面白いと胸を張って言えるかは微妙ながら、「でも結構好き」というタイプの映画である。
 それとリンクさせて思ったけど、スピルバーグが撮る勢いのあるドタバタはわりと好きだ。群衆の一見雑然とした動きも、流れやメリハリが綿密に計算されていて、人間の動き自体が面白さを喚起するように作られている。スピルバーグにドリフのコントとか作らせたらすごくハマったと思う。
 あと興味深かったのは、両作品とも「映画中映画」にディズニー作品を用いている点。『グレムリン』ではグレムリン達が『白雪姫』を歌いながら鑑賞し、『1941』では偉い軍人が『ダンボ』に涙する。いずれも、こいつら/こんな人でも純粋にディズニー映画を楽しむんだ、というギャップが笑いを誘うように設計されているわけだが、むしろそのギャップを実現可能にする土台には「ディズニー映画」の普遍性こそが想定されているのではないだろうか。アメリカ的ピューリタニスティックな香りをまとい、国民的娯楽の王者たるディズニーは、アメリカ一般市民を超越して世界的に受け入れられる普遍的な娯楽でもある。スピルバーグの無意識下にあるのは、そんな映画作品への憧れだろうか?

ここがダメだよ。オレのしごと。

「そもそも」を考えてないじゃん

「ある会議で「○○を××したい」ということについて議論したいから、方策のたたき台を作れ」という指示があった。ぼーっと聞いていてファーストタッチには関わっていなかったら、会議にかけられたのは、指示を出した人の思い付きを正当化するだけの非論理的な資料だった。
まあどうでもいいけど、と放っておいたら、会議でも皆「ふーん。おk」って感じで、こいつらまじやべえと思った。
「そもそも」を考える人がいなかった。複数の人を巻き込みたい時ほど「そもそも」を十分に考えておかないと、後戻りができなってくだらない仕事を続ける羽目になる。前提があやふやなまま気まぐれに考案された貧しいアイディアにも、忙しい人たちからは結構OKが出てしまうのである。
会議の議題にも係単位の仕事の進め方にも言えることだが、本当に実のある議論がしたかったら、前提をしっかり共有した上でオープンに考えるものだ。まず、○○とは何か?××とはどういうことか?というところから始めなければ、アイディアの有効性を検証できない。その上で、「××とは△△が増えること」というところを合意形成して、「ではどうすれば△△が増えるのか?」に取り掛かる。こうして初めて、色んな背景を持った色んな人のアイディアが生きる。この案はきちんと目的の方を向っているだろうか。コストパフォーマンスはどうか。これで全部か。関連して実施しなければならないことは何か。こうした検証を経て、ようやく「こうしよう」が生まれるのである。
同時に、何をするにも、「落としどころ」を定めておかなければならない。いつまでに、どのような状況が実現すれば、ゴールなのか。そこからの逆算で、期限と作業をブレイクダウンしていって、ひとつずつ片づけていくしかないのである。
就活セミナーとかで聞くレベルの話よ。

調整してないじゃん

板挟みこそが仕事の本質と言っても過言ではない。複数の意思決定者や関係者の間をどう調整しながら形にしていくか。そこには、調整者の個性が介入してもいいと思うけれど、とにかく方針を持って、落としどころを見据えて、そこに向けて調整していく、というある種のグイグイ感が必要になってくる。でなければあなたは、終わらないラリーのピンポン玉である。
僕は、気が付いたらピンポン玉になっていた。あるパンフレットを作る機会があり、とりあえずのたたき台がある会議ではすんなり通ったので、それを最高意思決定者に持っていったら、ざっくりと変えられた。僕にはそれはもっともなことに思えたので、それを調整して会議を仕切っている人に持って行ったら、今度はそちらで難色を示された。僕としては「でもね、部長」と押したのだが、説得かなわず。結局、台の上で跳ねるのがめんどくさくなったので、2人でラケットで直接殴り合ってもらうことにした。
まあ、開き直るつもりはないが、それが可能ならば、それも解決策だろう。しかし、そこでもたついたためにパンフレットの完成は延期になってしまったわけで、元はと言えば僕の進め方はうまくなかった。そもそも最終的な意思決定者というゴールを見据えるべきだったし、その上で自分のスタンスを定め、誰をねじ伏せなければならないのか、戦略がなかった。どのようにねじ伏せることができるのか、戦術もなかった。

チームで仕事してないじゃん

組織における最小単位は、個人でなく係なのだ。もちろん評価される時には連帯責任なんかではなく、個人の貢献度を測定される方が(気持ちが)良いと思うけど、動く単位としてはやっぱり係だろう。それは、個人ではどうしても凸凹になる能力を平準化する、あるいは欠点を補い合いながら各々の最も良いところが出るようにするためだ。また、人事異動や、事故・病気といった不測の事態で人は出入りすることを前提に、組織としては存続するからでもある。チームを組むことの最も根本的な意義としては、こんなところだろう。
係に課せられたタスクを個人で処理可能な要素にブレイクダウンして期限内に片づけていくのであるが、それは飽くまでブレイクダウンされた欠片でしかなく、タスクの全体性は依然として係で共有されている。だから進捗は係でわかるようにしておけと言うのである。
僕は、横槍が入りそうでめんどくせえなと思ったら、CCを入れずに係外の関係者とやり取りしてしまうのである。それで丸く収まった時にようやく報告する。これでは、チームへの責任を果たしているとは言えないし、チームとしてのリスクヘッジも全く効かない。さすがにうまく対処できてない時は上司に相談するが、「もっと早く言え!」と思われていることもあるだろう。
僕のように、人とコミュニケーションをとるのがめんどくさい、できる限り一人で仕事したい、と考える人間は少なからずいると思う。そういう人たちに対して、これは好き嫌いや得意不得意の問題ではないのだ、チームこそが仕事の単位でありプラットフォームなのだ、という意識は不断に共有しなければならない。そのためには、定期的な(感覚的には最低で週1)ミーティングは絶対に必要なんだけど、今までそんな職場には一度も当たらなかった。自分のこと棚に上げて言わせてもらうが、一体どうなってんの?

その資料だめじゃん

資料はコミュニケーションツールである。読んだ人にアクションを起こしてもらう(「そのことについて考える」だって良い)ために作るのである。言いたいことを紙の上に言いっぱなしただけの資料というのは、オナニー後のティッシュペーパーと同じではないか。
予備知識なしでこの資料を見た人を、どのようなアクションに誘導するのか、目的が明確であることが望ましい。とはいえ資料とは説得の作業そのものであるから、いきなり「○○せよ!」と大書すればよいというものではない。目的地への案内が要る。人の目の動きは「上から下」または「左から右」なので、それにそって情報のフルコースを並べてやればよいのだ。コース料理は、それぞれの皿の出来栄えと同じくらい、出す順番やタイミングが重要であることを思えば、一覧表の欄の順番ひとつにもこだわりたくなってくるだろう。具体的な中身については、データを論理で結んで主張を組み立てる、なんていう話は誰しもどこかで読んだり聞いたりしたことだろうから、そうゆうのを自分なりに身に着ければいいんじゃないかな。あと、どんな職についていても、ビジネス分析ツール的なものは知っといた方がいいと思ったわ。道具も知らずにぐるぐる悩んで時間の無駄してることが多すぎる。
自分自身がそうであるように、他人も、自身のことで精いっぱいだから、時間も関心もない人に読んでもらうには、何よりもまず簡潔に。紙面は限られているから、「言いたいこと」よりも「目的達成のために言うべきこと」を書こう。役人がよくやるのだが、パワポの意味も知らず、文字をぎゅうぎゅうに詰め込んだテキストボックスを矢印でつないで何かを図示した気分になっている「ポンチ絵」なるものがあって、あれを見るたびに「死ね」と思う。
ただし注意したいのは、簡潔さが不親切になってはいけないということだ。簡潔を心がけると、単語を羅列しただけ、という表記にもなりがちだが、「いみわかんねえ」ことによるストレスは却って読者を目的地から遠ざける。ちょっとした主語や助詞の明示が肝になることがある。

仕事してないじゃん

 そもそも、面倒なのである。労働に割く時間や手間や思考は、最小限にしたいと思っている。別に他の何がしたいというのではない。僕は、基本的に、何もしたくない。だからダメなんだよ。オレのしごと。

kindle paper whiteについて

昨年末、実家に帰ったら、父がkindle paperwhiteを持っていた。たいそう気に入っているようで頻りに勧める、というよりも買ってやるなどと言うので、大人しく買ってもらうことにした。その場でAmazonで注文して、翌日にはうちに届いた。
もともと「紙の本」にフェティシズムを感じる人間でもなかったし、初めは物珍しさもあって使っていたところ、だんだんとその便利さに憑りつかれ、今では生活の(小さな)一部となったといってもまあ良いと思う。
僕はもともと本を読むのが得意でない。読むのが遅いし、読んだことを覚えていない。読んでいるとすぐ眠くなる。そんなわけで、いまいち「本を読もう」という気分にならず、去年までは読書など下手したら年間5〜6冊ではなかったかと思うのだが、今年は今の時点でpaperwhiteで30冊程度読了している。人と比べて大した数字ではもちろんないが、この増加量は評価に値するだろう。
僕にとっては、物理的な意味で楽に読めること、何故か比較的眠くなりにくいこと等がだいぶ読書のハードルを下げたと思うし、読み終えたページが見えないので読んだという実感がないことが逆に、「覚えられないこと」による苦手意識を軽減したかもしれない。こうした理由により「読むこと」が身近になったのは、2016年の大きな出来事であるだろう。
これをどう人にお勧めするかと考えるに、自分の実感から言えば、以下のうちふたつくらい心当たるならば、是非ご検討されたい。

常時複数の本を携行したい

paperwhiteは薄い。で、小さいってほどでもないけど、大きくもない。カバーとかなかったら、一応ジャケットの内ポケットに入る。で、本めっちゃ入る。内ポケットに忍ばせとくだけで、ビジネスっぽい本と、一般教養的な本と、小説と、なんて気分転換しながら読める。むしろ1日単位の外出でそんなに読めない。旅行の時がとても便利。長い移動時間とか、ちょっとした隙間時間のお供。電池は週単位で持つし、充電はmicroUSBだからスマホので済む人も多い。本体の3G回線か、スマホとかでテザリングできれば、旅先でも荷物を増やさず本を増やせる。

本を開いて保持するのが面倒、特に分厚い本が重くて嫌

paperwhiteは軽い。で、小さいってほどでもないけど、大きくもない。成人男性なら、基本的には片手で持てる。で、手でページを開いておく、という必要がない。しかも、ページめくりも、指で画面に軽く触れるだけ。時々片手で本を持つ人がいて、アメリカンホームダイレクトの手というか、親指と小指でページを広げておいて、そのまま親指と小指をもぞもぞして器用にページをめくる人もいると思うけど、そういう特殊技能いらない。京極夏彦でも、片手で余裕。電車で吊革につかまってる時でも、寝っ転がってる時でも、体勢を選ばず楽に読める。

本は寝る前に読みたい、寝ているかみさんの隣でも心置きなく読みたい

paperwhiteは光る。電気スタンドとか使わなくていいから、隣で人が寝てても迷惑にならないし、真っ暗の中読んで、眠くなったら画面OFFにして速攻寝れる。しかも、バックライトじゃなくてフロントライトだから、よくわからないけど、とにかく目が疲れないらしい。要は紙にライト当ててるのと同じ。スマホよりは疲れない。

本は欲しいと思った時が読み時

kindle本になっていれば、という条件はあるけど、文字通り光の速さで本が手に入る。amazonの1時間以内配送ってのもすごいけど、その待ち時間さえない。テレビや新聞やネットを見ていて、あるいは街中や電車内の広告で、気になる本が見つかったら、kindle検索→1click購入→読める。深夜でも、外出先でも、次の瞬間には手の中にある。目の前に無いものを買う行為としては、今のところ最速。速すぎてやばいので、一応「間違ってポチったから返品」もできる。「サンプルダウンロード」といって、購入前に冒頭数ページを読める機能もあるけど、僕はあんまり使ってない。


一方で、このデバイスも万能ではない。がっかりしないためには、向かない用途、弱みも理解しておくことが必要だ。

学術利用

学習や研究に用いる文献を、具体的にどういう風に使うかというと、
・重要なこと、記憶すべきことが書かれたページに付箋を貼り、すぐに開けるようにする
・線やメモを書き込む
・複数のページを行ったり来たりする
・複数の書籍を見比べる
ということが少なくない。これらはいずれも、文献の物理的特性を最大限に活用して、頭の働きとモノとを連動させる使い方である。このうちの一部はpaperwhiteでやれないことはないんだけど、どうにもまどろっこしく、要するにクリエイティビティの湧き出しにキャッチアップするという点では、紙とペンという物理的なデバイスには敵わない。その点では、paperwhiteは狭い意味で読むことに特化した道具と割り切った方が良い。

漫画

何十巻にもなる漫画をこの薄っぺらいデバイスで読み耽ることの魅力には、抗いがたいものがある。電子インクの表示やページめくり機能も、申し分ない。ぶっちゃけ、漫画は読める。しかしそれでも、漫画というメディアに対する敬意を持つならば、たった1つの理由において、paperwhiteで漫画を読むべきではない。厳密にいえば、従来の枠組みの中で生産された、紙で出版された漫画を。
その理由とは、「見開き表示ができない」ことである。
漫画の作品性には、視覚効果も含まれる。言うまでもないことだが、「何を」だけでなく(漫画という形式において)「どう」描くかも、作家の力量であり個性なのだ。例えばコマ割りである。コマという形式に対する工夫により、軽重、緩急、空気感など、様々な要素を表現することができる。ある漫画作品を、全てのコマの大きさを揃えて1コマずつ紙に刷ったとしたら、その紙の束は、物語としての豊かさにおいて、元の漫画作品から大きく劣化したものになるに違いない。
その最たるものが「見開き」だ。「見開き」とは、漫画雑誌にせよ単行本にせよ書籍になることを前提として描かれた漫画に特有の、ひとつの技法である。作者が強い意図をもって、特定の視覚効果を狙って、わざわざその技法を採用する。面積の大きさから単純に考えれば、しばしばそれは、ストーリーの中で最大級の「見せ場」なのだ。
これをページ単位で分断して表示してしまうことは、「何か見づらい」を超えた非常に重大な問題だ。端的に言って、形式に託された作者の表現が失効することに他ならない。本質的には、絵が描かれたコマを黒く塗りつぶすのと大差ない暴挙である、とは過言であろうか。
そんなわけで、このようなことを引き起こすデバイスでは、「漫画を読む」という行為の総体をカバーしつくすことはできないと思うのである。
見開きがなければ私も文句はない。紙媒体の漫画でも4コマ漫画集などはこうした問題を引き起こさないだろう。また、そもそもから電子書籍に最適化されて生産された漫画も今後は増えていくと考えられる。web漫画という、物理的紙面の不在や縦スクロールといった特性に適応した形式も今や確立し、その中での表現がやはり模索されている。言いたいのは要するに、『キングダム』は紙の本で読みてえなあ、という程度である。

メディア芸術祭@新美

ツイッター公式アカウントでは入場規制とアナウンスされていたので、まあ休日だし無料だしと覚悟はしていたが、入口で1分ほど待ったくらいで全然大したことなかった。飽かず繰り返される印象派展とかの方がよっぽど酷いのはどうしてだ。
メディア芸術という語の意味をよくわかっていないのだが、「芸術」と峻別すべき何ものかというあたりから、メディアの特性と自覚的に結びついた芸術表現、くらいのことは言えるだろう。
その点では、メディアそのものの展示ではあったけど、そのメディアが我々の時空感覚を揺るがす『これは映画ではないらしい』が印象的だった。要は動画という2次元+時間のコンテンツを無時間的な情報に変換するにあたり、従来は(デジタル動画でさえも)パラパラ漫画の原理を用いているのに対し、これは一つの画素が発する色が時間の経過に沿ってどう変化するかを1本の線分上に記録し、その線分を画素の数だけ積分した2次元に動画情報が収まる、というもので、まあこんな説明ではピンとこないか。とにかく、これがどう応用されるのかは全然わからんけど、今までズタズタにスライスされて2次元空間に離散的に貼り付けられるものだった時間を、2次元空間の方をみじん切りにすることによって連続的な空間の中に固定してしまうという発想が面白かった。
また、街なかにある看板文字をスキャンしてプログラムによりフォントを自動生成する『のらもじプロジェクト』も、我々を取り巻く情報にこれまでとは違った眼差しを向けるもので、気に入った。看板文字の形状という、メディアとしてはむしろ余剰の部分に着目し、その形状が生まれるプロセス(先代が手書きした、とか)等の聞き取りも作品の一部を構成する。特に手書きの看板文字のフォントは、例えば「スナックみゆき」なら「スナックみゆき」という文字群のためだけに生まれたものであって、本来「む」や「ペ」には対応していない、即ち普遍性を持たないわけで、それ故の雑種性、野性的な力強さや自由気ままさといったものを端的に示す「のらもじ」というネーミングはうまいなあと思った。しかし、であるならば、存在する看板文字からテクノロジーによって帰納的にフォントを生成する試みは、「のら」を飼い馴らすことを意味するのか?いや、おそらくそれは新たな「繁殖」の契機だろう。
ところで、「メディア芸術」の「メディア」部分が進化することで、メディアを包含する作品は高度な自律性や自動生成能力を獲得してゆくけど、その点についてはちょっと懐疑的な思いもある。知覚できない何ものかを可視化・可聴化するような作品も何点かあって、それは当然アーティストによる「制作」ではあるけど、インプットとアウトプットとの間を科学技術任せにした時、そのアウトプットをどの程度まで人間の仕事の成果物と認めて良いものか、よくわからない。要するにその光や音から何を感じ取ればよいのか、よくわからないのだ。「見えない電波を抽象的な絵で表しました。変換はコンピュータがやってくれました」への僕の反応は、正直、「見えないんだったら知らんし、コンピュータがやってくれたんだったらわからん」だったのである。
まあ、世界を目から入力して手で出力していた画家が、視野を一瞬で「自律的に」平面に固定する写真術の発明と対峙した時、画家はまさにその衝撃によって絵を描くことを次の次元へ昇華させたし、他方写真術も、写真師から写真家への脱皮により新たな表現の地平へとダイナミックに進化していったことを思えば、これからも次々に面白いことは起こってゆくのだろう、くらいには構えている。

鳥公園『透明な隣人〜8―エイト―に寄せて〜』

@アサヒアートスクエア。

実際にあった同性婚をめぐる裁判をもとにしたアメリカの戯曲『エイト』。鳥公園の西尾氏が今年の夏にその公演の演出をした際、同性婚を認めるという正しさのみに向かって書かれた戯曲に覚えたある違和感を、西尾氏自身の作品として表明する。

ぱっと見の印象として、鳥公園の舞台でよく見られた、人間の真皮の奥に分け入っていこうとする時の、居心地の悪いごつごつした表現が鳴りを潜め、何だか洗練された感じだなあと思った。間の取り方とか、見栄の切り方(?)に、映画を見ているような気分になることもあった。いつもの、何言ってるかわかんねえよ!みたいなのは少なくて、それは今回の問題意識が今までに比べて、外部から、ある程度明確な輪郭をもってやってきたものであったからだと思う。

『エイト』に対する感覚はかなりストレートに吐露されている。マイノリティが権利を主張し、マジョリティがそれを保護する、という構造が正しいものとして美化されるほどに、その構造にコミットする気がない実は多様な「マイノリティ」は一層の孤独を感じることになる。マジョリティというアイデンティティに依拠することで成立するマイノリティへの眼差しはどこか遠くの大きなものを見ていて、それよりもお前と同じくだらねえ生活者としての俺を見てくれよ、という一人の隣人の声は透明なのだ。

純粋に宣伝文句に釣られてくると、作品の中でのセクシャルマイノリティの扱いには、何だか肩透かしを食うかもしれない。同性の間で起こることは、異性の間で起こることや親子の間で起こることによって相対化される。人間が生きるということについて、「ありのまま」はあまりにグロテスクだ。それを社会化して普通にふるまうために本当は皆が無理をしていて、ぎりぎりのところで関係を保っている。色々な関係がぐるぐると変奏曲のように繋がることで、却って宣伝文句で打ち出したことが少しずつ浮き彫りになる。

「転」は突然訪れた、気がした。LGBTの就職支援みたいなことをしているレズの女性と、彼女と同棲しているがノンケで娘もいる女性とが、雑誌記者からの取材を受けている、それはもうガチガチによそゆきの場面に、ノンケの女性の娘が裂け目を開く。クラスになじめず暴走する自意識のもっていき場として、食べたものを吐くことを繰り返す娘だが、そのことで最も近しいはずの両親から負の眼差しを受けることが許せなかった。
――というカミングアウト、劇中最高潮の「泣き」の演技からの、テッテレー、同性婚法制記念特番の寸劇でしたー、皆さん拍手!という西尾流の底意地の悪さ(褒め言葉)!娘の「お父さんとお母さんには変に思われたくなかった」という言葉に泣きそうになってしまった僕は何なのだ。
これは未来の日本において、同性婚が認められた時であった。この子役は実は70歳、レズビアンカップルは90代、「医学の進歩」「アンチエイジング」により若い容貌を保っているというわざわざの設定、つまりこれはSFとして捉えればよいのだろうか。
劇中で流れる「同性婚に関する街頭インタビュー」でも、回答者は個人的には同性婚に対して反対するようなことは言わなくても、社会的に認められるようになるのは具体的にいつごろですかと問われれば、20年後だろうとか50年後だろうとか、ふんわりした話になる。50年後といえば、『プラネテス』なんかでは月面に都市とか作っちゃってるわけで、そのくらい、現実感から隔離させた世界なのである。
同性婚を社会として制度化するまでには、社会が追認せざるを得なくなった状況の出現があるはずで、性の問題である以上はそこには自然科学の介入が想定されるが、そのあたりのことは特に触れられていないので、若作りの90歳という星新一的SF要素は何だったんだろうという気はする。

劇中劇の構造によって指摘されるのは、『エイト』という演劇が予め想定していた、観客が示すべき特定の態度や反応の存在である。未来のテレビ収録のスタジオのぐいぐい来る空気はそれを端的に表現しているのだろうし、現代の街頭インタビューの回答者による腰の引けた空気は一見それとは異なるようだが、同じ国の中のこと、後者の中から前者が醸成されたのである。
現代の人々の代表的な態度、反対する理由がないから賛成、という考えには僕自身も結構しっくりくるのだけど、それは賛成する積極的な理由もない、ということも白状してしまっていて、そんな僕は何を見て賛成しているのか、確かにわからない。結局は同性婚に賛成を表明する、異なる者に寛容な自分を、自分に対して演じたいのではないか。それを突き詰めていったところで、見たくもないネガティブな現実、認められたがらないマイノリティとか、現実と折り合いをつけることの難しさとか、を見せつけられると即座に背を向けて知らんぷりをしまうのではないだろうか。それが「マジョリティ」の得権だから。

同性愛の話をすることと、同性婚の話をすることとは別だろうと思うので、その点で突っ込み不足の感はある。しかし僕はもともと、セクシャルマイノリティというトピックについては深い知識も強い関心もなかったので、自意識と演技をめぐるお話だったな、というところに落ち着いた。

鳥公園の劇では時々、舞台上で料理をする場面があって、そこで起こっていることのリアリティというものについて考えさせられる。脚本と演出によって構築される舞台上の時空というのは確かにあるけど、それに絡みつく、現実と地続きの時空。演劇の上演中に、舞台上で米を研いで炊飯器にセットすると30分かそこらでご飯が炊けて、それを舞台上で食べるとその後何時間かかけてその役者の体内でご飯が消化される、という現象のどこに嘘があるのだ。
とりわけ今回は料理が意味をもっていたように思う。「住」を共有する者に対して食事を作って一緒に食べる、つまり「食」も共有するということは、味や匂いや感触といった身体感覚をシンクロさせる極めて日常的な紐帯確認の行為なわけだが、劇中では何が食べたいかわからないからとキャベツを切るだけだったり、深夜にありもので手早くチャーハンを作っても拒絶されたり、すれ違いの象徴として提示されることが多かった。
劇の最後は、赤の他人が炊いたご飯とスーパーで買ってきたと思しき惣菜の食事。愛のこもった手作りではないかもしれないけど、自分以外の者にごはんをよそったり、人数分のコロッケを買ってくるという、小さな互いのための行為で成り立つ食卓を囲み、少し笑って、光が満ちて閉幕。ここには新しい関係性への希望があって、鳥公園の舞台が最後に希望を持ってくるのはあまり多くないなあと思った。人間の奥深くに切り込むことと、人間の繋がりによって成り立つ社会を描くこととでは、少し身振りが異なるのかも知れない。

彼女たちが、そんな小さな希望を得られた契機は、どうやら娘のアルバムのようだった。不思議なことにアルバムって結構力があって、例えば僕が結婚の報告でかみさんの実家に行った時、かみさんの小さい頃のアルバムを見せられるわけ。で、僕の実家に行った時も、母はやっぱりアルバムを出してきたので何だかびっくりして、イニシエーションの祭具としての機能を感じたものだった。思い返すに、例えば映画『歩いても歩いても』でも嫁さんはアルバムを見せられていたし、『寄生獣』ではイニシエーションではないけど、田村玲子がついに母になる前日、新一の家に上がり込んで、新一のアルバムをめくっていたのだ。

どこかの誰かが炊いたご飯や、地べたを這うことで発見した、誰かがめくり誰かが片付けたアルバムといった、舞台上を流れる時間の堆積がよすがとなり、彼女たちはやっぱり家族という関係に向かい始めたのだろうか。