アニメ『寄生獣』感想

寄生獣アニメ、2話まで見た。


ミギーはこんなんじゃない。


さんざん漫画で読まれてきた人外のキャラクターに声をあてるなんて、誰がやってもある程度の批判は免れないだろうから、声優や演出の能力をどうこう言うつもりはないが、それでも率直な感想として、ミギーはこんなんじゃない。
演出のスタンスとしては、寄生生物の情の無さを、感情の無さと捉えているのだと思う。ミギーも他の寄生生物も、ゆっくりと抑揚を抑えた、というよりも「いかにも私は感情の起伏を抑えていますよ」という話し方をする。
人間のような嬉しい^_^悲しいT_Tと同様ではないにせよ、寄生生物にも思考能力があり自己がある以上、身体の働きとしてある種の感情があると解釈するのは自然なことで、社会性の欠如のためにむしろそれがむきだしに発露することも少なくない。ミギーだって、知りたいことについては好奇心を露わにするし、自分を守るために新一を怒鳴りつけたりする。そしてその起伏の出方は寄生生物の中でも個性がある、というのは作中で描かれているとおりだ。
寄生生物に欠けている「情」とは「同情」のことだと思う。それは、自分の命だけが大切で、他者の命などどうでもよいという合理性の表れであり、だからこそ、田村玲子が倉森を殺す場面が面白いのである。倉森という人間の駆け引きまでは見破れなかった田村だが、彼女は作中で初めて(我が子に対する)「情」を獲得した寄生生物である。新一と良好な関係を築いていたミギーでさえこの時、田村が出した脳波を理解できずにいた。
とにかくそういうことが念頭にあって、僕はミギーの喋り方は、理知的だが実は直情径行で少しだけ早口、というイメージだったので、アニメの演出に違和感を覚えたのである。もっとも、寄生生物は所詮人間とは別の生物なので、人間の言葉を操る際には必ずしも人間と同じようなやり方にはならない、というような考え方もあるのかも知れないが、僕はそれでは、その表現によって伝わることは少し違うのではないかな、と思う。


声の質は、これはそれぞれの感覚だから、しょうがないよね。僕は未だに、じゃあ誰ならしっくりくるのか、全然思いつかないし。微妙に可愛げをつけた演技が鼻につくことが時々あったけど、新生物ミギーが初めて新一と話すところなんかは、印象的な場面をうまく演じていたと思う。
アニメーションについては、漫画のタッチやコマ割りによって表現されていた抑揚、緩急、間といったものが少々のっぺりしてしまった感じがして、そこは岩明均の漫画表現の卓抜さを物語るところだ。台詞の無いコマとか、同じコマの繰り返しとか、そのへんの間が寄生獣は絶妙なんだけど、10巻の漫画を30分10回前後のアニメにするには、色々ギュッとしなければならないところもあろう。その一方で寄生生物の一瞬の攻撃は、漫画では基本的にコマとコマの間に落とすことで省略的にそのスピードが表現されているけど、アニメではその宿命としてそれに連続的な動きをつけるわけで、するとどれだけそのスピードを演出しようとも何だか間抜けになってしまうということがわかった。
それでもまあ、アニメならではの寄生獣をやれば良いと思う。全体として帳尻の合う形で面白く見せてくれるなら、立川裕子が同級生だったり、新一が眼鏡にブレザーだったり、里美のでこが出ていたり、そんなことに目くじらを立てるつもりは無い。


しかし、新一は自分の右手に起こった事態について、インターネットで検索をかける。里美は新一をパンケーキデートに誘う。これらの行動により、この物語が2010年代の現在を舞台としていることが極めてあからさまに示されている。一方原作は1990年代前半に同時代を舞台として描かれたものであり、この「翻案」については、アニメ作品を通しての説明が必要だと感じる。
寄生獣』は、新一が人間と寄生生物との間に立ち様々な事件に対峙することで、文字通り人間として成長してゆく物語であり、そこに時代を超えた普遍性があるからこそ、未だに新装版・映画・アニメと商売になるのであろう。と同時に、漫画『寄生獣』の成立はかなり時代性を帯びている。それは現代日本社会において長期連載という制作形態をとる漫画という芸術の、興味深い点の一つかもしれない。
コミックス最終巻に掲載されているあとがきでは、連載当初は環境問題を論じる声はあまり多くなく、愚かな人間たちへの警鐘という感じで描き始めたが、社会で環境問題が取り上げられることが増えるに従って「人間が言うなよ」という気分になり、それがストーリー展開に影響を与えた、と振り返っている。
寄生獣』以前だって当然環境問題は社会に認知されていたが、1990年前後というのは確かにそれが新たな局面を迎えた時期だったようだ。冷戦終結により、国際政治の新たな駒として環境問題が焦点化し、グローバルに問題に取り組む機運が高まる。持続可能な発展という考え方は1980年が初出のようだが、80年代後半以降、特に92年の国連地球サミットから、環境問題を地球規模で考える上で中心的な理念となる。そしてこうした国際的な動きを受け、日本でも93年に環境基本法が制定される。これは、それまで公害対策基本法と自然環境保全法とに分かれていたのを一本化し、総合的に環境問題に取り組みましょうよ、くらいのことだろうが、とにかく日本社会においても環境に対する考え方がいったん整理されたのがこの頃であった。この時代の空気にぶつかった岩明が天邪鬼を発揮した結果が『寄生獣』という作品である。
寄生生物は、実はまさにこの「持続可能な発展」という概念の体現者である。第1話冒頭の誰かの独白「もし人間の数が半分になったら」「百分の一になったら」という仮定は、寄生生物は人間の殲滅のために送り込まれた刺客ではないことを示す。「持続可能な発展原理主義者」を代表する広川は、寄生生物は生態系の頂点、人間の天敵として人間の一つ上に収まることで、自然のバランスが回復する、と主張する。「寄生」生物だから、宿主を失わずに繁栄することが大前提なのだ。
これを、「持続可能な発展」とかいう美辞麗句を振りかざす人間への皮肉と解釈したくなるが、作品がたどり着いたのはその一歩先、あらゆる生物は「寄りそい生きる」ものであることに気づき、その中で人間の「心のヒマ」(=寄生生物には無い、「情」)を信じることを以て終幕するのである。
このように、『寄生獣』という物語は、90年代前半の社会の空気と不可分の関係にある。本作の面白さの一つはこの批判性であり、そのトゲを抜いて花だけを現在という花瓶に活け替えて、果たして美しく咲いてくれるだろうか。
また、人間とは何か、ということを考える上で作中で補助線として扱われている「利己的な遺伝子」も、本国イギリスでの初出は70年代だが、邦訳は91年刊行であり、これもある意味では「流行り」が取り入れられたのかも知れない。でもこのアニメは、その流行りも落ち着いた時代の話だ。
当時と今とでは何が違うのか、整理して理解することは僕にはできない。大きな環境問題で言えば、90年代の国際社会のノリで土台を作ったは良いものの、先進国と途上国との間で利害が食い違い、政治問題化する中でグローバルな対策の実効性を確保できず、どうすんのこれ、という閉塞感がある、気はする・・・が、高校生の身の回りに起こる話に関係しそうところとしては、もしかしたら「ロハス」の出現と定着は結構でかいのでは、と感じている。
この言葉が日本で注目されるようになったのは2000年代前半だそうである。環境問題を政治でどうこうというのではなく、地球環境問題と個々人の、単発的な行動というよりは総合的なライフスタイルとを接続させる思想といえるだろう。ファッション的にスタイルを取り入れる人から、真に生き方を捧げる人まで様々だが、そうした人々が、単なる変わり者で片づけられないほどに、名前を付けてひとくくりにできる程度に、数や発言力の点において市民権を得ている。そうすると、ライフスタイルのあらゆる切り口から消費にも繋がり、要は商売になる。すると、本来の環境や健康における善の他に、資本主義における善、という評価軸が発生する。ロハスビジネスは本当にロハスか?なんていうことが題材になり得るのかもわからんけど。


要するに、1990年代のお話を2010年代に持ってくるのなら、2010年代のリアリティを『寄生獣』の批判精神で捉えるようなストーリー展開を見たいのである。


あと、次回は田宮良子が出てきそうなので楽しみです。

はい!スーパーグローバル大学グローバル学部3年、加藤と申します!

スーパーグローバル大学ってのはすごいな。スーパーグローバルハイスクールに通ってグローバルなセンスを身に付けた高校生は、「スーパーグローバル大学」なんて絶対行きたくないと思う。ギャグである。吉本新喜劇の書き割りである。そんな、口に出すのもはばかられるようなお粗末な語呂をオーソライズしちゃう人々を、我々は信用すべきではない。
僕は、このたびスーパーグローバル大学に指定された大学のうちのひとつに通っていたが、そこでは個々の性質を越えた若者全体としての内向き志向なんて、微塵も感じなかった。既に名の知られたいくつかの大学に「グローバル化」の名目で補助金くれてやるのは、せっかくつけたお金がドブに飛び込むリスクを低くするためでしかなくて、それが本当に「若い世代の内向き志向」の克服につながるとは到底思えない。
折しも先日、ETV特集で、貧困と学習に関する番組をやっていた。家庭の(相対的)貧困に苦しむ未成年は、そもそも貧困をもたらした諸々の要因、そしてその貧困がもたらす諸々の要因、それらにがんじがらめにされて、一つの問題をクリアしただけではその環境から抜け出せない。環境がないし、やり方もわからないから、学べない。学歴が得られない。そうやって沈んでいく人間が生み出され、また再生産されてゆく。
取材を受けていた青年は、自分の家庭に向けられる自己責任論のまなざしを非常に敏感に感じ取っていて、それでもお金とか助けてくれる人とか知識といったリソースが不足する中、「何をどう頑張っていいか、思いつかなかったんすよね」と言っていたのが非常に印象的だった。
近世の繁栄、近代化、列強へのキャッチアップ、戦後復興、高度成長と、日本を支えてきたのはいつも底上げの理念ではなかったのか。若者の内向きという問題が本当に存在しているのか、それが本当に問題なのかはよくわからんけど、何にせよ若い世代を育てることについては、下から見ていかないと、そのうち補給線伸び切るぞ。

疲れた

今日は色々怒られて疲れた。そんなに怒ることかな?ひとつは勘違いだし。こちらはわりと緻密に、一言一句ニュアンスを考えて発しているのに、そういうの全部すっ飛ばして直情的に人を非難できるのが不思議だし羨ましい。わざわざつっかかるために曲解してるのかな。
精神的にきついときは、「メンタルタフネス」と心の中で唱えると、何だか修行でもしている気分になって、どうにかやり過ごせる。

若者がデートに使える歴史系ミュージアムとは

大味な歴史展示よりも、縦軸が明確な方が人は来易いわな。それぞれのテーマには専門的なミュージアムがあることが多いけど、そこは、色々なテーマを立てながらも、それらを絡ませた展示ができる、規模の強みを発揮すべき。現状は、時代ごとに輪切りにして展示を構築する仕組みになっているのが問題。

時代のイメージ

日本の歴史についてつらつら考えるに、一般に古代、中世、近世、近代、現代、と言われるけれども、我々の時代に対する認識という点から言えば、旧石器以前、旧石器から弥生まで、古墳、飛鳥から平安、鎌倉から江戸まで、近現代、というくくりでちょっとずつ異なっている。

旧石器以前は、日本列島に人間が入ってくる前ということで、少なくともここで人間が何かを考えていたという痕跡は無いのだから、人間の歴史としては無かったことになっている。動物が跋扈していた時代。

旧石器から弥生時代までは、人々が使っていた道具から時代のイメージを得ている。弥生土器というのは土器が出てきた地名(今の文京区弥生)からついた名前だけど、その場所のことは特に意識されることはないし、実際その時代の実態とは関係がない。とにかくこの頃は、生活者だけがわらわらいて、未成熟でエンライトされていない時代。

古墳時代から、時代のイメージに政治体制が入り込んできて、この頃から土が国土になってくる。特定の政権というよりも、色んなところで有力者が古墳をばかばか作りましたという程度ではあるが、歴史の主役が生活者から権力者に移ったのがこの時代。古墳という語については、古い盛り土というのは今から言って古いのであって、飽くまで後世からの時代の規定である。

王権の所在地が時代の呼称になるのは飛鳥時代からである。ここでようやく、天皇がいて、天皇が住む宮があり、宮の周りに都があり、ここが国土の中心である、という国の姿が設定される。これはいわゆる古代という区分に当たる。

鎌倉時代からは、政治の実質的中心地という点ではそれ以前と変わらないものの、その中心地にあるのは将軍であり、幕府である。国の体制が一段複雑化し、権威ある天皇と、形式的には天皇に任命され、実質的な権力(および腕力)を持つ将軍がいて、これらの時代の主役は後者である。

武士の時代が終焉し、日本は近代化を経験する。この時代(〜現在)を、東京時代とは言わない。皇居の所在地は近代国家の首都として、依然として圧倒的なプレゼンスを保っているが、時代の呼称には使われていない。一か所から国土を統治するという発想は、建前上は民主国家にはそぐわないのだろうか。
しかし、明治時代、大正時代といった元号に依拠する呼び方(昭和時代は、まだこなれない)は、日本の近現代とは紛れもなく天皇が支配する時空であることを示唆している。

以上は、各時代の実態を云々したのでなく、飽くまで、今の我々が日本の歴史、それぞれの時代について無意識的にどういうイメージを持っているか、ということをだらだら考えたまでである。

色音痴

 簡単な編集作業をしたり、ディスプレイ用のパネルを作ったりする際に、当然色をつけたりするわけだが、色に関する知識や感覚がまるでないので、ちょっと勉強しようかなと思っている。
 服装にしても学生時代からダサいと言われることが多く、自衛のために地味な色しか着ないようにしていたので、「色使い」のセンスを生活の中で育てることもなかった。
 自分のやってることに照らし合わせると、とりあえずカラーコーディネーターのための勉強をしてみるのが、とっかかりとしては良さそうだ。まあ、いつまで現場仕事をしているかも、ここで働き続けるかもわからんわけだが。

飲み会の後に話したこと

 展示物そのものの、美しいとか珍しいとかいう魅力だけで人を惹きつけることのできるミュージアムは確かにある。工芸品を見て「職人技ってすごい」と感じたり、動植物を見て「自然の営みって面白い」と思うのは、もともとそれらのファンである人たちばかりではない。
 一方で、そうでないミュージアムもある。歴史系や文学系のミュージアムの展示物は、単体では人の興味を引きづらいものが少なくない。それらは観覧者に読む行為を要求する。その展示物をある文脈の中に位置付けて初めて、その展示物の存在意義がわかる。わざわざそうしたプロセスを経るのは、基本的に物好き以外の人にとっては面倒である。
 その分野のファン以外の人たちに、展示場に足を運んでもらい、「へぇ〜」を得てもらうためには、その面倒を取り払わなければいけない。ミュージアム側は説明キャプションや音声ガイド、ミュージアムトークといったチャネルをわかりやすく、かつ充実した内容で提供し、展示の文脈に関わる情報を補完するわけだが、これらも時間と頭を使うという点で面倒だと思われてしまった時、もっと直感的な体験をしてもらうために、人文系のミュージアムにおいてはどんな方法論があるだろう。
 単に資料を大量に所蔵するだけの研究機関ではなく、外とのコミュニケーションを目的とするミュージアムという形態を選択した以上、コミュ障のハコに価値は無い。