ここがダメだよ。オレのしごと。

「そもそも」を考えてないじゃん

「ある会議で「○○を××したい」ということについて議論したいから、方策のたたき台を作れ」という指示があった。ぼーっと聞いていてファーストタッチには関わっていなかったら、会議にかけられたのは、指示を出した人の思い付きを正当化するだけの非論理的な資料だった。
まあどうでもいいけど、と放っておいたら、会議でも皆「ふーん。おk」って感じで、こいつらまじやべえと思った。
「そもそも」を考える人がいなかった。複数の人を巻き込みたい時ほど「そもそも」を十分に考えておかないと、後戻りができなってくだらない仕事を続ける羽目になる。前提があやふやなまま気まぐれに考案された貧しいアイディアにも、忙しい人たちからは結構OKが出てしまうのである。
会議の議題にも係単位の仕事の進め方にも言えることだが、本当に実のある議論がしたかったら、前提をしっかり共有した上でオープンに考えるものだ。まず、○○とは何か?××とはどういうことか?というところから始めなければ、アイディアの有効性を検証できない。その上で、「××とは△△が増えること」というところを合意形成して、「ではどうすれば△△が増えるのか?」に取り掛かる。こうして初めて、色んな背景を持った色んな人のアイディアが生きる。この案はきちんと目的の方を向っているだろうか。コストパフォーマンスはどうか。これで全部か。関連して実施しなければならないことは何か。こうした検証を経て、ようやく「こうしよう」が生まれるのである。
同時に、何をするにも、「落としどころ」を定めておかなければならない。いつまでに、どのような状況が実現すれば、ゴールなのか。そこからの逆算で、期限と作業をブレイクダウンしていって、ひとつずつ片づけていくしかないのである。
就活セミナーとかで聞くレベルの話よ。

調整してないじゃん

板挟みこそが仕事の本質と言っても過言ではない。複数の意思決定者や関係者の間をどう調整しながら形にしていくか。そこには、調整者の個性が介入してもいいと思うけれど、とにかく方針を持って、落としどころを見据えて、そこに向けて調整していく、というある種のグイグイ感が必要になってくる。でなければあなたは、終わらないラリーのピンポン玉である。
僕は、気が付いたらピンポン玉になっていた。あるパンフレットを作る機会があり、とりあえずのたたき台がある会議ではすんなり通ったので、それを最高意思決定者に持っていったら、ざっくりと変えられた。僕にはそれはもっともなことに思えたので、それを調整して会議を仕切っている人に持って行ったら、今度はそちらで難色を示された。僕としては「でもね、部長」と押したのだが、説得かなわず。結局、台の上で跳ねるのがめんどくさくなったので、2人でラケットで直接殴り合ってもらうことにした。
まあ、開き直るつもりはないが、それが可能ならば、それも解決策だろう。しかし、そこでもたついたためにパンフレットの完成は延期になってしまったわけで、元はと言えば僕の進め方はうまくなかった。そもそも最終的な意思決定者というゴールを見据えるべきだったし、その上で自分のスタンスを定め、誰をねじ伏せなければならないのか、戦略がなかった。どのようにねじ伏せることができるのか、戦術もなかった。

チームで仕事してないじゃん

組織における最小単位は、個人でなく係なのだ。もちろん評価される時には連帯責任なんかではなく、個人の貢献度を測定される方が(気持ちが)良いと思うけど、動く単位としてはやっぱり係だろう。それは、個人ではどうしても凸凹になる能力を平準化する、あるいは欠点を補い合いながら各々の最も良いところが出るようにするためだ。また、人事異動や、事故・病気といった不測の事態で人は出入りすることを前提に、組織としては存続するからでもある。チームを組むことの最も根本的な意義としては、こんなところだろう。
係に課せられたタスクを個人で処理可能な要素にブレイクダウンして期限内に片づけていくのであるが、それは飽くまでブレイクダウンされた欠片でしかなく、タスクの全体性は依然として係で共有されている。だから進捗は係でわかるようにしておけと言うのである。
僕は、横槍が入りそうでめんどくせえなと思ったら、CCを入れずに係外の関係者とやり取りしてしまうのである。それで丸く収まった時にようやく報告する。これでは、チームへの責任を果たしているとは言えないし、チームとしてのリスクヘッジも全く効かない。さすがにうまく対処できてない時は上司に相談するが、「もっと早く言え!」と思われていることもあるだろう。
僕のように、人とコミュニケーションをとるのがめんどくさい、できる限り一人で仕事したい、と考える人間は少なからずいると思う。そういう人たちに対して、これは好き嫌いや得意不得意の問題ではないのだ、チームこそが仕事の単位でありプラットフォームなのだ、という意識は不断に共有しなければならない。そのためには、定期的な(感覚的には最低で週1)ミーティングは絶対に必要なんだけど、今までそんな職場には一度も当たらなかった。自分のこと棚に上げて言わせてもらうが、一体どうなってんの?

その資料だめじゃん

資料はコミュニケーションツールである。読んだ人にアクションを起こしてもらう(「そのことについて考える」だって良い)ために作るのである。言いたいことを紙の上に言いっぱなしただけの資料というのは、オナニー後のティッシュペーパーと同じではないか。
予備知識なしでこの資料を見た人を、どのようなアクションに誘導するのか、目的が明確であることが望ましい。とはいえ資料とは説得の作業そのものであるから、いきなり「○○せよ!」と大書すればよいというものではない。目的地への案内が要る。人の目の動きは「上から下」または「左から右」なので、それにそって情報のフルコースを並べてやればよいのだ。コース料理は、それぞれの皿の出来栄えと同じくらい、出す順番やタイミングが重要であることを思えば、一覧表の欄の順番ひとつにもこだわりたくなってくるだろう。具体的な中身については、データを論理で結んで主張を組み立てる、なんていう話は誰しもどこかで読んだり聞いたりしたことだろうから、そうゆうのを自分なりに身に着ければいいんじゃないかな。あと、どんな職についていても、ビジネス分析ツール的なものは知っといた方がいいと思ったわ。道具も知らずにぐるぐる悩んで時間の無駄してることが多すぎる。
自分自身がそうであるように、他人も、自身のことで精いっぱいだから、時間も関心もない人に読んでもらうには、何よりもまず簡潔に。紙面は限られているから、「言いたいこと」よりも「目的達成のために言うべきこと」を書こう。役人がよくやるのだが、パワポの意味も知らず、文字をぎゅうぎゅうに詰め込んだテキストボックスを矢印でつないで何かを図示した気分になっている「ポンチ絵」なるものがあって、あれを見るたびに「死ね」と思う。
ただし注意したいのは、簡潔さが不親切になってはいけないということだ。簡潔を心がけると、単語を羅列しただけ、という表記にもなりがちだが、「いみわかんねえ」ことによるストレスは却って読者を目的地から遠ざける。ちょっとした主語や助詞の明示が肝になることがある。

仕事してないじゃん

 そもそも、面倒なのである。労働に割く時間や手間や思考は、最小限にしたいと思っている。別に他の何がしたいというのではない。僕は、基本的に、何もしたくない。だからダメなんだよ。オレのしごと。