グレムリンについて

 回転寿司に当たって会社を休んだ時に暇だったので、久しぶりに『グレムリン』を観てみた。クリスマス映画の定番だしね。
 本当に幼い頃以来だったのだが、改めて観ると「へえーこんな映画だったのか」と思った点がいくつか。
 グレムリンが日本人をモデルとしている、とまでは見れなかったものの、少なくともシンボリックな扱いとして、やっぱりアメリカの経済的なナショナリズムはひしひしと感じるのである。
 わかりやすいところで言えば、近所のおっさんが自動車や家電などについて頻りに国産製品びいきをして、外車をけなす。その描写はコミカルではあっても風刺には至っていないことから、この映画の基本的なスタンスはこのおっさんと同じと考えてよいだろう。
 84年公開の映画ということで、日本人としては日米貿易摩擦を思い出すが、登場人物の誰も「日本」製品がダメとは言わないので、日本がdisられていると感じるのを自意識過剰とするのもわからんでもない。それでも、未知の生物モグアイが、宇宙でもなく、(地球上の)自然でもなく、チャイナタウンというアメリカ人にとって最も身近な東洋=異なる文明からもたらされたものであることの意味を軽視するわけにはいかないだろう。
 日本人にとってはお馴染みかも知れないが、85年公開の『バック・トゥ・ザ・フューチャー』では、1955年のドクが「日本製の部品なんて信頼できん」と言うのに対し1985年から来たマーティーが「日本製は最高」と返すシーンがあり、この当時「日本製品」というトピックについてはもはやジェネレーションギャップとしてジョークが成立するほど隆盛を誇っていたことが示されている。
 実は映画『グレムリン』の成り立ちの上では、今述べた近所のおっさんこそが「フィルター」として極めて重要な役割を担っているのである。そもそも、この映画のタイトルが何故「グレムリン」なのか。本来グレムリンとは、機械に潜んで悪さをする子鬼を指すそうだが、映画の中で展開される未知の生物との格闘は、別段そのようなグレムリン像を想起させるものではない。国産びいきのおっさんが「外国製品にはグレムリンが住み着いている」というアイディアを導入することで初めて、あのモンスター達はグレムリンと化すのである。
 また、ギズモの飼い主・ビリーが警察署に駆け込んでギズモを見せた際、ギズモが星条旗をかぶったりして「アメリカびいき」を印象付けてくる場面も、ちょっとしたカットにしてはできすぎていよう。
 映画は、ギズモをビリーにプレゼントする父親によって語られるという体裁をとる。といっても、最初と最後にナレーションが入るだけだ。わざわざこのような演出がなされた理由がしばらくわからなかったが、これもまた「フィルター」を強化する仕組みではないだろうか。
 映画の最後は、「家電の調子がおかしくなったらグレムリンの仕業かも知れないよ」という父親の語りで締めくくられる。モンスター達とのドタバタは、語りのレヴェルでは国産びいきのおっさんの眼差しに回収されるのである。父親が最後に言いたかったのは、災いを招いたことへの反省の弁ではなく、「外国製品を疑え」というメッセージだったのだ。
 この点において、格闘に直接関わらなかった父が語り手を担うことのトリックが効いてくるのであろうし、「しょぼい発明家」という父の職業も、押し寄せてくる大量生産の外国製品に対峙するものとして機能していると考えることもできる。
 ところで、この父親が本当にしょぼい。発明品は売れないので、銀行勤めの息子が家計を支えている。グレムリンの大量発生時は見本市に行っていたとかで駆除には一切関わらず、ビリー達が(というより直接的にはギズモが)ラスボスを倒したところに偶然居合わせて「なんじゃこりゃあ・・・」みたいな顔をするだけである。とにかく、役に立つところが無い。ただし家族には愛されている。
さらに言えば、ヒロイン・ケイトの父親も、「クリスマスに家族を驚かそうとして煙突から帰宅しようとしたところ、足を滑らせて死んだ(からケイトはクリスマスが嫌い)」とのことで、切ない話に見せかけているが、相当しょぼい。
 一方、母は超強い。繭から孵ったばかりの凶悪なグレムリンにキッチンで遭遇したビリーの母親は、ディスポーザー、電子レンジ、ナイフといったその場の武器で立て続けに3匹も殺してしまうのである。トンマな奴らばかり出てくるこの映画において、数少ないスカッとする見せ場のひとつであることは間違いない。キッチンという場における最強の存在としての母、という表象も面白いが、このような父なるものと母なるものとの描き分け、ないしはそれらをひっくるめた家族像にも何か深みがありそうではある。
 そして話を戻せば、キッチンという生活家電の密集地域においてグレムリンを退治することの意味は小さくないだろう。
 全ての騒動が収まった後、モグアイの元の所有者であった中国系の老人がモグアイを引き取りに来た時、「この災禍はお前ら自身の利己心が引き起こしたものだ」と非難する。一見ごく一般的なお叱りなのだが、これも自意識過剰的に見れば、戦後アメリカが日本を飼い慣らし、ある面では投資回収のために育成してきた、という経緯を思い起こさざるを得ない。ここでアメリカ人観衆に対してチクリとやっておくのがこの映画のスパイシーなところか(それを面と向かって言われたビリーの父親は、先述のとおりお話をまとめてしまうのであるが)
 子どものころは単に可愛い生き物と気持ち悪いモンスターが出てくる映画として楽しんでいたと思うが、今観るとスピルバーグの小意地の悪さ(褒め言葉)が効いていて、それはそれで楽しかった。


 スピルバーグと言えば、先日テレビで、1979年公開の『1941』という映画をやっていた。真珠湾攻撃直後のアメリカ西海岸におけるパニックをネタにしたコメディである。番組冒頭に評論家が宣った「ホームラン性のファウル」とはなかなか言い得て妙で、人にお勧めするのは難しいし、全体として良い・面白いと胸を張って言えるかは微妙ながら、「でも結構好き」というタイプの映画である。
 それとリンクさせて思ったけど、スピルバーグが撮る勢いのあるドタバタはわりと好きだ。群衆の一見雑然とした動きも、流れやメリハリが綿密に計算されていて、人間の動き自体が面白さを喚起するように作られている。スピルバーグにドリフのコントとか作らせたらすごくハマったと思う。
 あと興味深かったのは、両作品とも「映画中映画」にディズニー作品を用いている点。『グレムリン』ではグレムリン達が『白雪姫』を歌いながら鑑賞し、『1941』では偉い軍人が『ダンボ』に涙する。いずれも、こいつら/こんな人でも純粋にディズニー映画を楽しむんだ、というギャップが笑いを誘うように設計されているわけだが、むしろそのギャップを実現可能にする土台には「ディズニー映画」の普遍性こそが想定されているのではないだろうか。アメリカ的ピューリタニスティックな香りをまとい、国民的娯楽の王者たるディズニーは、アメリカ一般市民を超越して世界的に受け入れられる普遍的な娯楽でもある。スピルバーグの無意識下にあるのは、そんな映画作品への憧れだろうか?