鳥公園『透明な隣人〜8―エイト―に寄せて〜』

@アサヒアートスクエア。

実際にあった同性婚をめぐる裁判をもとにしたアメリカの戯曲『エイト』。鳥公園の西尾氏が今年の夏にその公演の演出をした際、同性婚を認めるという正しさのみに向かって書かれた戯曲に覚えたある違和感を、西尾氏自身の作品として表明する。

ぱっと見の印象として、鳥公園の舞台でよく見られた、人間の真皮の奥に分け入っていこうとする時の、居心地の悪いごつごつした表現が鳴りを潜め、何だか洗練された感じだなあと思った。間の取り方とか、見栄の切り方(?)に、映画を見ているような気分になることもあった。いつもの、何言ってるかわかんねえよ!みたいなのは少なくて、それは今回の問題意識が今までに比べて、外部から、ある程度明確な輪郭をもってやってきたものであったからだと思う。

『エイト』に対する感覚はかなりストレートに吐露されている。マイノリティが権利を主張し、マジョリティがそれを保護する、という構造が正しいものとして美化されるほどに、その構造にコミットする気がない実は多様な「マイノリティ」は一層の孤独を感じることになる。マジョリティというアイデンティティに依拠することで成立するマイノリティへの眼差しはどこか遠くの大きなものを見ていて、それよりもお前と同じくだらねえ生活者としての俺を見てくれよ、という一人の隣人の声は透明なのだ。

純粋に宣伝文句に釣られてくると、作品の中でのセクシャルマイノリティの扱いには、何だか肩透かしを食うかもしれない。同性の間で起こることは、異性の間で起こることや親子の間で起こることによって相対化される。人間が生きるということについて、「ありのまま」はあまりにグロテスクだ。それを社会化して普通にふるまうために本当は皆が無理をしていて、ぎりぎりのところで関係を保っている。色々な関係がぐるぐると変奏曲のように繋がることで、却って宣伝文句で打ち出したことが少しずつ浮き彫りになる。

「転」は突然訪れた、気がした。LGBTの就職支援みたいなことをしているレズの女性と、彼女と同棲しているがノンケで娘もいる女性とが、雑誌記者からの取材を受けている、それはもうガチガチによそゆきの場面に、ノンケの女性の娘が裂け目を開く。クラスになじめず暴走する自意識のもっていき場として、食べたものを吐くことを繰り返す娘だが、そのことで最も近しいはずの両親から負の眼差しを受けることが許せなかった。
――というカミングアウト、劇中最高潮の「泣き」の演技からの、テッテレー、同性婚法制記念特番の寸劇でしたー、皆さん拍手!という西尾流の底意地の悪さ(褒め言葉)!娘の「お父さんとお母さんには変に思われたくなかった」という言葉に泣きそうになってしまった僕は何なのだ。
これは未来の日本において、同性婚が認められた時であった。この子役は実は70歳、レズビアンカップルは90代、「医学の進歩」「アンチエイジング」により若い容貌を保っているというわざわざの設定、つまりこれはSFとして捉えればよいのだろうか。
劇中で流れる「同性婚に関する街頭インタビュー」でも、回答者は個人的には同性婚に対して反対するようなことは言わなくても、社会的に認められるようになるのは具体的にいつごろですかと問われれば、20年後だろうとか50年後だろうとか、ふんわりした話になる。50年後といえば、『プラネテス』なんかでは月面に都市とか作っちゃってるわけで、そのくらい、現実感から隔離させた世界なのである。
同性婚を社会として制度化するまでには、社会が追認せざるを得なくなった状況の出現があるはずで、性の問題である以上はそこには自然科学の介入が想定されるが、そのあたりのことは特に触れられていないので、若作りの90歳という星新一的SF要素は何だったんだろうという気はする。

劇中劇の構造によって指摘されるのは、『エイト』という演劇が予め想定していた、観客が示すべき特定の態度や反応の存在である。未来のテレビ収録のスタジオのぐいぐい来る空気はそれを端的に表現しているのだろうし、現代の街頭インタビューの回答者による腰の引けた空気は一見それとは異なるようだが、同じ国の中のこと、後者の中から前者が醸成されたのである。
現代の人々の代表的な態度、反対する理由がないから賛成、という考えには僕自身も結構しっくりくるのだけど、それは賛成する積極的な理由もない、ということも白状してしまっていて、そんな僕は何を見て賛成しているのか、確かにわからない。結局は同性婚に賛成を表明する、異なる者に寛容な自分を、自分に対して演じたいのではないか。それを突き詰めていったところで、見たくもないネガティブな現実、認められたがらないマイノリティとか、現実と折り合いをつけることの難しさとか、を見せつけられると即座に背を向けて知らんぷりをしまうのではないだろうか。それが「マジョリティ」の得権だから。

同性愛の話をすることと、同性婚の話をすることとは別だろうと思うので、その点で突っ込み不足の感はある。しかし僕はもともと、セクシャルマイノリティというトピックについては深い知識も強い関心もなかったので、自意識と演技をめぐるお話だったな、というところに落ち着いた。

鳥公園の劇では時々、舞台上で料理をする場面があって、そこで起こっていることのリアリティというものについて考えさせられる。脚本と演出によって構築される舞台上の時空というのは確かにあるけど、それに絡みつく、現実と地続きの時空。演劇の上演中に、舞台上で米を研いで炊飯器にセットすると30分かそこらでご飯が炊けて、それを舞台上で食べるとその後何時間かかけてその役者の体内でご飯が消化される、という現象のどこに嘘があるのだ。
とりわけ今回は料理が意味をもっていたように思う。「住」を共有する者に対して食事を作って一緒に食べる、つまり「食」も共有するということは、味や匂いや感触といった身体感覚をシンクロさせる極めて日常的な紐帯確認の行為なわけだが、劇中では何が食べたいかわからないからとキャベツを切るだけだったり、深夜にありもので手早くチャーハンを作っても拒絶されたり、すれ違いの象徴として提示されることが多かった。
劇の最後は、赤の他人が炊いたご飯とスーパーで買ってきたと思しき惣菜の食事。愛のこもった手作りではないかもしれないけど、自分以外の者にごはんをよそったり、人数分のコロッケを買ってくるという、小さな互いのための行為で成り立つ食卓を囲み、少し笑って、光が満ちて閉幕。ここには新しい関係性への希望があって、鳥公園の舞台が最後に希望を持ってくるのはあまり多くないなあと思った。人間の奥深くに切り込むことと、人間の繋がりによって成り立つ社会を描くこととでは、少し身振りが異なるのかも知れない。

彼女たちが、そんな小さな希望を得られた契機は、どうやら娘のアルバムのようだった。不思議なことにアルバムって結構力があって、例えば僕が結婚の報告でかみさんの実家に行った時、かみさんの小さい頃のアルバムを見せられるわけ。で、僕の実家に行った時も、母はやっぱりアルバムを出してきたので何だかびっくりして、イニシエーションの祭具としての機能を感じたものだった。思い返すに、例えば映画『歩いても歩いても』でも嫁さんはアルバムを見せられていたし、『寄生獣』ではイニシエーションではないけど、田村玲子がついに母になる前日、新一の家に上がり込んで、新一のアルバムをめくっていたのだ。

どこかの誰かが炊いたご飯や、地べたを這うことで発見した、誰かがめくり誰かが片付けたアルバムといった、舞台上を流れる時間の堆積がよすがとなり、彼女たちはやっぱり家族という関係に向かい始めたのだろうか。