メディア芸術祭@新美

ツイッター公式アカウントでは入場規制とアナウンスされていたので、まあ休日だし無料だしと覚悟はしていたが、入口で1分ほど待ったくらいで全然大したことなかった。飽かず繰り返される印象派展とかの方がよっぽど酷いのはどうしてだ。
メディア芸術という語の意味をよくわかっていないのだが、「芸術」と峻別すべき何ものかというあたりから、メディアの特性と自覚的に結びついた芸術表現、くらいのことは言えるだろう。
その点では、メディアそのものの展示ではあったけど、そのメディアが我々の時空感覚を揺るがす『これは映画ではないらしい』が印象的だった。要は動画という2次元+時間のコンテンツを無時間的な情報に変換するにあたり、従来は(デジタル動画でさえも)パラパラ漫画の原理を用いているのに対し、これは一つの画素が発する色が時間の経過に沿ってどう変化するかを1本の線分上に記録し、その線分を画素の数だけ積分した2次元に動画情報が収まる、というもので、まあこんな説明ではピンとこないか。とにかく、これがどう応用されるのかは全然わからんけど、今までズタズタにスライスされて2次元空間に離散的に貼り付けられるものだった時間を、2次元空間の方をみじん切りにすることによって連続的な空間の中に固定してしまうという発想が面白かった。
また、街なかにある看板文字をスキャンしてプログラムによりフォントを自動生成する『のらもじプロジェクト』も、我々を取り巻く情報にこれまでとは違った眼差しを向けるもので、気に入った。看板文字の形状という、メディアとしてはむしろ余剰の部分に着目し、その形状が生まれるプロセス(先代が手書きした、とか)等の聞き取りも作品の一部を構成する。特に手書きの看板文字のフォントは、例えば「スナックみゆき」なら「スナックみゆき」という文字群のためだけに生まれたものであって、本来「む」や「ペ」には対応していない、即ち普遍性を持たないわけで、それ故の雑種性、野性的な力強さや自由気ままさといったものを端的に示す「のらもじ」というネーミングはうまいなあと思った。しかし、であるならば、存在する看板文字からテクノロジーによって帰納的にフォントを生成する試みは、「のら」を飼い馴らすことを意味するのか?いや、おそらくそれは新たな「繁殖」の契機だろう。
ところで、「メディア芸術」の「メディア」部分が進化することで、メディアを包含する作品は高度な自律性や自動生成能力を獲得してゆくけど、その点についてはちょっと懐疑的な思いもある。知覚できない何ものかを可視化・可聴化するような作品も何点かあって、それは当然アーティストによる「制作」ではあるけど、インプットとアウトプットとの間を科学技術任せにした時、そのアウトプットをどの程度まで人間の仕事の成果物と認めて良いものか、よくわからない。要するにその光や音から何を感じ取ればよいのか、よくわからないのだ。「見えない電波を抽象的な絵で表しました。変換はコンピュータがやってくれました」への僕の反応は、正直、「見えないんだったら知らんし、コンピュータがやってくれたんだったらわからん」だったのである。
まあ、世界を目から入力して手で出力していた画家が、視野を一瞬で「自律的に」平面に固定する写真術の発明と対峙した時、画家はまさにその衝撃によって絵を描くことを次の次元へ昇華させたし、他方写真術も、写真師から写真家への脱皮により新たな表現の地平へとダイナミックに進化していったことを思えば、これからも次々に面白いことは起こってゆくのだろう、くらいには構えている。